話半分日記

半分は本気、もう半分はジョークです。お手やわらかに。

異界と空間、弱さについて

目下引越しの準備中。都合によって実家に戻った荷物は、わずか3日後には別の場所へと移される予定となり、その引越し先はまだ未決。

わからないという状態がさほど不安でもないなかで、本日、楽しみにしていたイベントのために久々に表参道の町を行く。夕書房(せきしょぼう)さんから出版された『彼岸の図書館–ぼくたちの「移住」のかたち』の刊行記念ツアー「元気です。」の東京編、第二回。ほくほく!

彼岸の図書館: ぼくたちの「移住」のかたち

彼岸の図書館: ぼくたちの「移住」のかたち

 

 『彼岸の図書館』とは、奈良県東吉野村天誅組最後の地のお隣にある“人文知の拠点”こと人文系施設図書館ルチャ・リブロのこと。青木さんご夫婦が西宮から命からがら東吉野に根を下ろしたその前後談を、多くの人たちとの対談によって重奏させていくというもの。*1

さてさて、そのなかで帯を書かれた内田樹先生を迎え、師弟関係のようなおふたりのお話を伺いに参じ、左隣のお兄さんと笑い、右隣のおじさまとにやける愉快な時間。どんなお話だったのか、まとめておきたい。

全編はオムラヂの放送があると推測するので、そちらを待つとして(自分も聞き直したいし)目下「引越し」中の我が身に染み染みしたのがこちら!編という形。

 

引越しにおける「異界」と「霊性」について

正直、異界とか霊性とか、はじめに聞いたときは「なんぞ?」だったけども、まさに当時はその言葉が自分にとっては「異界」で、今は少なくとも異界というものがあるらしいことは感知できている、そんな風に思うわけで。

その一方で霊性とは、まあこれも一言でいうのが難しいもので、自分の感覚によってそういう異界性をキャッチできること、かもしれない。

霊といってもそれはゴースト的なホラー的なものではもちろん異なっていて、ここでは第六感とか直感とか、ゾクゾクする感じとか、そういう言葉で言い換えておきたい。感覚的だから、頭で理解するよりも体全体でわかる物事のこととも。

ひとつ特徴的なのは、霊的であるとか異質であることは、それらの核心があるとして、その周りをぐるぐる回るように語るとか、それらを語るとき、文章はより複雑で、長くなる。そういう風にできていると思う。要するにっていうのが難しいこともあるので、言い換えたり比喩を使ったりして話すみたいな。

 

さてさて、このふたつは自分の価値判断の鏡写しみたいなもので、自分がもってる何かの判断のための物差しって、それって小さくない?と訴えかけてくるものだ。

言い換えると「価値考課の不可能な、自分の度量衡を超えている物事が生活の周りにどれほど存在し、また自分がそれを感知できているか」という問いかけになる。長いでしょ。

価値考課が可能な世界と、全くそれが不可能な世界とがある。その異質性を知るのは知性の問題でもあり、またそれに気づくためには自分の霊的な問題でもある。

まずはそういう世界の隔たりがあることを知る。というか、知り続ける。そのためのフックとしての異界性、またそれを感知するための霊性。さて、その異質性のあるものは本であるという話から、次は「場を整える」ということについて。

 

「異界によって場を整える」

本がある空間が「整う」ということについて。ここは武道と気の話なので体感的にはわかりにいところではあるけれども、本書でも建築家のひかる光島裕介さんが、場所と身体性について書いているけれども、こんな具合に。

自分の身体のすべてを理解できるわけではありません。むしろ、そのほとんどはなぜそう感じるのか「わからない」にもかかわらず、身体自体は問題なく機能している。この「わからなさ」という不確定要素を持った自分の身体との対話を通して、自らの住空間の生命力を高める方向に設えていけるといい。(上掲書 p. 207-8)

わからないけど、なんとなくいい感じがするとか、気持ちの良い場所があるというのはとても大切な観点のように思っていて、それは大切に感じる経験が多かったからだと思う。

この場所にいるとなんだか気持ちが静まるとか、体が動くように感じるとか、そういう風に思える場所はけっこうあって、その時考えて見ても、しっくりと言葉に落とせない。でも気分がいい。

持ち合わせの語彙に、現状を語り尽くす言葉がない時、たぶん自分は「わからない」と思うんだとすれば、その感覚を基本に置いておくと世の中はいくぶん丸くなると思う。

目下次の引越し先のことを考えているけれども、この基準をもっておきたいと思う。なぜなら、利便性だけで選びがちだからだ。

住宅サイトを見ていれば、駅から徒歩何分だの近くにコンビニがあるだの、南向きだの、他の物件と比較検討できる情報がまるで価値のある情報のように扱われているような節があるけれど、いや、実際にはまだ別の観点が残ってるよねって思うのだ。

その観点こそが霊的なもの、かつ異界的なもの。この部屋、なんかいいなとか、なんか感じ悪いなとか、近くには山があって、そこには神社があるなとか、ここは周りから見たら窪んでいるだの、ちょっとだけ高台にあるだの、坂道の途中だので、その場所の雰囲気は変わってくるし、誰がその物件を手入れしているかによっても、家の印象は変わってくる。

つまりは人やそれまでの歴史性がその場所にはあるわけで、これは具体的だし個別的な事情になる。

比較検討できない物事が住む場所にはあって、それを身体感覚を通して一度味わうことが肝要。そういう意味でも、本がある空間は異界への窓あるいは経路足りうるから、本がある空間を内的に持ちつつ、さらに住空間の周りには神社やその土地が信仰してきたものや考えててきたものがあると良いなと思うのだ。それを探す。さて、最後は「弱さを自己開示すること」について。

 

弱い部分を開くこと

弱いと思っていることを自分で恥ずかしいと思っていて、自分は極端に人に声をかけるのが苦手だと思っている。ちょっとしんどいのだ。必要に思わないと、という感じもある。カジュアルになれない...。

新しい人に声をかけるのも勇気がいるし、職業的にそれができても、まず人に声をかけるという行為が日常的に行われにくい時だってある。そういう土地柄なのかもしれないわけだ、東京が。スマホをいじりながら感覚的にシャットダウンした人たちと意思疎通なんて...という具合に。

さて、そういう点で弱いと思っていることや、実際に弱かった経験を開示できる場所として、ルリャ・リブロがあるとすれば、それは多分青木さんがきちんと自分たちをモニターできているからだと思うし、それだけの視点の高さを得ているからなのだと思った。

えてして初対面の人間は強さカウンターを測るかのごとく、あれを知っているかだの自分はどこそこの組織畑の人間だので、虎の威を借りまくってくることがあるけれど、そういうとき、借りてきた後ろに引っ込むのはその人の弱い部分なのだ。

強いところを見せて置いて距離をとるというのは、たぶん下手くそな人のやり口だろうけど、この下手くそさは言い換えれば「手っ取り早い」ということであり、威信的な態度をとるというのは、そういう意味では簡単なのだ。胸糞悪いときがあるけれども。

さて、この弱さを隠してしまいたいという羞恥のようなものがあって、それをきちんと開示できるとき、何かの力みが取れていくような気になる。それが開示するという体験なのかもしれないなと思った。

突如として重力を得る感じというか、友人に相談をした時でもそうだし、自分の弱いところ、言い換えればのっぴきならない側面を打ち明けると、なんだか視点が定まるなと思うのだ。

 

さて、この3つのテーマをもらった時間だった。異質性と霊性。それを身体感覚として捉えながら、自らの住空間をどのように考えるか。また、弱さについて。あるいは強くあろうとしてしまうことについて、とも言えるかも。ストロング・マッチョとは別の道を歩くことの選択。選んだ、というほど意思的でなくとも。

いずれにしても肝要なことがひとつあって、それは霊的なセンサーというか感覚というかをきちんと持つこと。そのために、自分の弱いところ、後ろ向きなところ、ためらいの気持ちをきちんと認識すること、言い換えればふたをしないこと。

そのような態度で、たまたま振り向きながらやっていく。後ろめたい気持ちや、ためらいの気持ちがなぜあるのか、どうしてそれらを身体が感覚するのか。

そんなものは無駄だからと、即決即断をしろ!と言われても、ちょっとできない。そんな風に話すことはできるけれど、それはあくまで方便でしかない時があると思う。わかりやすい状況が求められることがあるから。それとは違う世界が重なった場所に生きている。異界や彼岸としての場所があり、それらを語ることには限度があって、語り得ぬことについて語るときには、黙るのではなく迂回するという手もあるよな、と思う宵の愉快な時間でした。

*1:もともと青木さんはオムライスラヂオなるラヂオ番組をブロードキャストされており、その収録が本の土台にある