話半分日記

半分は本気、もう半分はジョークです。お手やわらかに。

ブンジン。

あまりに暑い日々が続いているけれど、およそ均一的に冷涼な部屋にいたんではなんだか具合が悪くなってくる。ということで、2階は窓を全開に(洗濯物がよく乾く)1階はそれなりの温度をエアコンが保つ、という生活空間が出来した。夏、8月はじめての週末。

あまりに暑いうえに、原稿を溜め込んでいるから気分はどんより梅雨のままであるけれど、遠くに聞こえるきよしのズンドコ節や、近所に多数出没を確認できる浴衣姿のご両人を見るにつけ、夏っけが増していくのがわかる。それ相応に汗をかいて暮らす。

仕事を選ぶだとか、どうやって暮らすかだとかいう話題になると、決まって「自分のしたいことはなにか」という問いかけが入道雲のように広がってくる。やがてそれは大きな雨を降らして土壌を洗い流してしまうから、せっかく考えても意味がない、うだうだすること夏、という時間に成り果ててしまうことが多かった。

その入道雲のような問いというか、もはやそれは依存的な態度というかだけど、それを唾棄する(強い言葉が浮んでくるものだ)までいかずとも、まあ飼い慣らせるようにと思って、本棚から『私とは何か』という新書を手に取った。あざかやなイエローが瑞瑞しい、平野啓一郎さんの著作。 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

いつだか大学時代にこれを読み、自分は「ブンジン」の集合である!と納得はしたものの、そこから自分の捉え方を根本から書き換える、という壮大な物事には到達せずここまで来た。というのも、それは多分に個人的な努力では収まりが効かないものであり(まず分人というものも、相手ありきで出来上がっていくものだら)つまり、環境から受ける影響が大きいということだ。

その環境は、例えば本屋にいくと「自分の好きなことを仕事にせい」「本当の私に出会える」という言葉にあふれていて、要するにそういう言葉をカービィのごとく吸収してしまうのだ。

挙句、その手の本が“本当の自分になる”ための、変身のための方法論が書かれたものとして十把一絡げ的に認識されるに至っている。

自己表現だとか、要するにこの「自己」という言葉から疑ってかかるべきところを、その疑う主体がまず「自己である」というもう本当にこれはやっちまいましたね、な考えに取り憑かれてますねという次第なのだ。

さて、このブンジンというのは、コミュニケーションに都度出来する「顔」に合わせて出てくる人たちで、社会やグループに依拠する形で、ある種のパターンを形成する。その分人の集合体が、いわゆる私を形成する。こうなってくるともはやイメージは「土地」だ。顔という土地に複数の人が住んでいて、彼らがゲストたる他人に対して、その都度対応してくれる。その様子を、違う分人が遠くから眺めたり、その他人が帰路に着いた後で、反省会的な省察を始める...などなど。

そうなるともはや人付き合いは土着的である、と言い切ってしまいたくなる。ある種の具体性を帯びるほかない、限定的であるほかない付き合いを受け入れる。有限性。そういうワードのもとで、分人たちに井戸端会議をかける。

分人たちはいろいろいる。小学校の頃に形成されたもの、中学のそれ、高校のそれ、大学・職場のそれ、等々。赤裸々で、透明で、何も濁っていないピュアな関係というのは「あったらいいね」的なもので、振り返ってみれば、どいつもこいつも具体的だった。

抽象性が高く、どこまでも飛んでいけそうな物語が大好きなのも、たぶんこの具体性の上に自分が立っているからだろうなと思う。憧れは上に向かうし、広がる。それは確かな足元の感覚や、重力によってある土地に立っているという感覚に基づかないのであれば、知覚することが難しいーつなんじゃないか。

 

いやはや、こんな具体性のない話で「具体的なもの」について書くなよって話なのかもしれないけれども、いやでも、私は今原稿という無慈悲にやってくる仕事の合間にこうして、毒にも薬にもならない言葉を書いているのだからして、この行為自体、えらく具体的なものなのだ。許してくれ。

というわけで、ガシガシと分人について考えながら読むのだ。ひとつの顔ばかりではないと腹の底からわかると、きっと生きやすくなるはずだぜ。DIVIDUALなものを掴むために、以前の読書ではなぜか向かわなかった『ドーン』へ、確からしい引力を感じながら。