話半分日記

半分は本気、もう半分はジョークです。お手やわらかに。

おめでとうございます。

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髪を切りに出たら、2周年なんですよと、ノベルティとして良い感じのノートを貰った。連日の引越し作業で、誰とも話していないせいなのか、気分のあまりよろしくない部分が膨らんで来ている気がするけれど、少しだけ気が晴れた。おめでとうございます。寝る前の今日の日記です。

朝起きて窓を開けたら冷たい風が入ってくる。季節の変化を感じるには、ひとまず外の温度を感じるとか、外の洗濯物とかを見るぐらいのことしかできなくて、家の中に季節感のあるものといえば、せいぜい冷蔵庫のなかぐらいのもんだなあと思う次第。

思えば同じところに長く住んだのは、地元以外では札幌ぐらいなもので、この都市はなんとはなくずっと好きなんだろうなと思う。脈絡のない時間だったし、どこまでも青臭くて果てそうだが、いやでも、大学は総じて有難いものだった。

雨の音がしている。明日の午前中ぐらいは持って欲しい。役場とスーパーに詣でて、必要な準備をしよう。こんなとき、ひとまず健康で良かった。

空の広さ加減の話

粗大ゴミとして廃棄するものと、実家に引き上げるものとを分け終わった。だいたい8割ぐらいは作業が終わったから、明日雨が降らないうちに役場にいって手続きをしないと。いやはや、10月も半ばになると風が冷たくなるもんです。台風が来るので備えなくては。

間違えたなあと思う。部屋の使い方を間違えたなあと思う。引き上げる予定のアパートはいわゆるメゾネットタイプで、一階と二階とが別れているタイプの物件。それも二階に水回りがまとまっていて、部屋の奥にはサービスルームなるおよそ2畳分のスペースがある。小窓が付いていて、まるで屋根裏部屋のよう。ここに寝るスペースを設えればよかった。小さくない後悔をした。

さて、次の家が決まっているわけでもなく、毎日ラヂオを流しながら作業に明け暮れて、気がついたら夜を迎える生活をしているわけだけれども、だから考えることだけに没頭できている。次買う車はどうしたらいいのか、そもそも車ってどうやって買うものなのかとか、新しく住むところには山があるかなとか、京都・大阪方面に行きやすい場所がいいなとか、そういう具合の妄想が膨らむ。

今住んでいる場所は空がとても狭くて、栃木はおよそどこでも空が広い。自分は空が広い場所に住みたいし、山が見える場所に住みたい。それは山の中ではなくふもとに住んでいたからだろうし、そういう場所に家を借り、遠地から人を呼ぶなり、自分が訪ねて行ったりしたいなと思うわけだ。

そんな想像をしながらごちゃごちゃとした小物を片付けるなどし、昨日買った本を眺める。引越し間際なのに買うのです。毎度思うことだが、買ってしまうのです。今月は本当に読書が充実している。

改めて、本はどこで買うかが大事だなと思う。お目当の書物があったとしても、その隣に何が置いてあるかは、本屋さんそれぞれに違う。それの違いがその本や周囲を際立たせるわけで、ダイレクトにその本との出合いを決めているように思う。そのすごみを目撃したら、Amazonだけでは満足できなくなる。

帰ったらどうしよう。どうやって本を買うべきだろうか。地元の書店を探す。都内の懇意にしているところに通う。どんな方法に落ち着くのかを考えながら、本棚を引越しに合わせて可変可能なものにできたらと考え始めた。

運びやすいという点を気にしてしまう。今後も引越しがある職業だし、物持ちはよくて軽くて、解体できて組み立れることができればいい。そんな本棚を作りたい。どこにでも本棚を作って、本を開架しておく。それに睨まれる暮らしだ、いずれにせよ。

 

さて、引越しも後半戦を迎えて東京もあと少しになってきた。東京でできていたことにさよならを告げながら、毎日を過ごすとしよう。ようやくまた観光客になれる。ここでは住まい手にはなれなかったから。

異界と空間、弱さについて

目下引越しの準備中。都合によって実家に戻った荷物は、わずか3日後には別の場所へと移される予定となり、その引越し先はまだ未決。

わからないという状態がさほど不安でもないなかで、本日、楽しみにしていたイベントのために久々に表参道の町を行く。夕書房(せきしょぼう)さんから出版された『彼岸の図書館–ぼくたちの「移住」のかたち』の刊行記念ツアー「元気です。」の東京編、第二回。ほくほく!

彼岸の図書館: ぼくたちの「移住」のかたち

彼岸の図書館: ぼくたちの「移住」のかたち

 

 『彼岸の図書館』とは、奈良県東吉野村天誅組最後の地のお隣にある“人文知の拠点”こと人文系施設図書館ルチャ・リブロのこと。青木さんご夫婦が西宮から命からがら東吉野に根を下ろしたその前後談を、多くの人たちとの対談によって重奏させていくというもの。*1

さてさて、そのなかで帯を書かれた内田樹先生を迎え、師弟関係のようなおふたりのお話を伺いに参じ、左隣のお兄さんと笑い、右隣のおじさまとにやける愉快な時間。どんなお話だったのか、まとめておきたい。

全編はオムラヂの放送があると推測するので、そちらを待つとして(自分も聞き直したいし)目下「引越し」中の我が身に染み染みしたのがこちら!編という形。

 

引越しにおける「異界」と「霊性」について

正直、異界とか霊性とか、はじめに聞いたときは「なんぞ?」だったけども、まさに当時はその言葉が自分にとっては「異界」で、今は少なくとも異界というものがあるらしいことは感知できている、そんな風に思うわけで。

その一方で霊性とは、まあこれも一言でいうのが難しいもので、自分の感覚によってそういう異界性をキャッチできること、かもしれない。

霊といってもそれはゴースト的なホラー的なものではもちろん異なっていて、ここでは第六感とか直感とか、ゾクゾクする感じとか、そういう言葉で言い換えておきたい。感覚的だから、頭で理解するよりも体全体でわかる物事のこととも。

ひとつ特徴的なのは、霊的であるとか異質であることは、それらの核心があるとして、その周りをぐるぐる回るように語るとか、それらを語るとき、文章はより複雑で、長くなる。そういう風にできていると思う。要するにっていうのが難しいこともあるので、言い換えたり比喩を使ったりして話すみたいな。

 

さてさて、このふたつは自分の価値判断の鏡写しみたいなもので、自分がもってる何かの判断のための物差しって、それって小さくない?と訴えかけてくるものだ。

言い換えると「価値考課の不可能な、自分の度量衡を超えている物事が生活の周りにどれほど存在し、また自分がそれを感知できているか」という問いかけになる。長いでしょ。

価値考課が可能な世界と、全くそれが不可能な世界とがある。その異質性を知るのは知性の問題でもあり、またそれに気づくためには自分の霊的な問題でもある。

まずはそういう世界の隔たりがあることを知る。というか、知り続ける。そのためのフックとしての異界性、またそれを感知するための霊性。さて、その異質性のあるものは本であるという話から、次は「場を整える」ということについて。

 

「異界によって場を整える」

本がある空間が「整う」ということについて。ここは武道と気の話なので体感的にはわかりにいところではあるけれども、本書でも建築家のひかる光島裕介さんが、場所と身体性について書いているけれども、こんな具合に。

自分の身体のすべてを理解できるわけではありません。むしろ、そのほとんどはなぜそう感じるのか「わからない」にもかかわらず、身体自体は問題なく機能している。この「わからなさ」という不確定要素を持った自分の身体との対話を通して、自らの住空間の生命力を高める方向に設えていけるといい。(上掲書 p. 207-8)

わからないけど、なんとなくいい感じがするとか、気持ちの良い場所があるというのはとても大切な観点のように思っていて、それは大切に感じる経験が多かったからだと思う。

この場所にいるとなんだか気持ちが静まるとか、体が動くように感じるとか、そういう風に思える場所はけっこうあって、その時考えて見ても、しっくりと言葉に落とせない。でも気分がいい。

持ち合わせの語彙に、現状を語り尽くす言葉がない時、たぶん自分は「わからない」と思うんだとすれば、その感覚を基本に置いておくと世の中はいくぶん丸くなると思う。

目下次の引越し先のことを考えているけれども、この基準をもっておきたいと思う。なぜなら、利便性だけで選びがちだからだ。

住宅サイトを見ていれば、駅から徒歩何分だの近くにコンビニがあるだの、南向きだの、他の物件と比較検討できる情報がまるで価値のある情報のように扱われているような節があるけれど、いや、実際にはまだ別の観点が残ってるよねって思うのだ。

その観点こそが霊的なもの、かつ異界的なもの。この部屋、なんかいいなとか、なんか感じ悪いなとか、近くには山があって、そこには神社があるなとか、ここは周りから見たら窪んでいるだの、ちょっとだけ高台にあるだの、坂道の途中だので、その場所の雰囲気は変わってくるし、誰がその物件を手入れしているかによっても、家の印象は変わってくる。

つまりは人やそれまでの歴史性がその場所にはあるわけで、これは具体的だし個別的な事情になる。

比較検討できない物事が住む場所にはあって、それを身体感覚を通して一度味わうことが肝要。そういう意味でも、本がある空間は異界への窓あるいは経路足りうるから、本がある空間を内的に持ちつつ、さらに住空間の周りには神社やその土地が信仰してきたものや考えててきたものがあると良いなと思うのだ。それを探す。さて、最後は「弱さを自己開示すること」について。

 

弱い部分を開くこと

弱いと思っていることを自分で恥ずかしいと思っていて、自分は極端に人に声をかけるのが苦手だと思っている。ちょっとしんどいのだ。必要に思わないと、という感じもある。カジュアルになれない...。

新しい人に声をかけるのも勇気がいるし、職業的にそれができても、まず人に声をかけるという行為が日常的に行われにくい時だってある。そういう土地柄なのかもしれないわけだ、東京が。スマホをいじりながら感覚的にシャットダウンした人たちと意思疎通なんて...という具合に。

さて、そういう点で弱いと思っていることや、実際に弱かった経験を開示できる場所として、ルリャ・リブロがあるとすれば、それは多分青木さんがきちんと自分たちをモニターできているからだと思うし、それだけの視点の高さを得ているからなのだと思った。

えてして初対面の人間は強さカウンターを測るかのごとく、あれを知っているかだの自分はどこそこの組織畑の人間だので、虎の威を借りまくってくることがあるけれど、そういうとき、借りてきた後ろに引っ込むのはその人の弱い部分なのだ。

強いところを見せて置いて距離をとるというのは、たぶん下手くそな人のやり口だろうけど、この下手くそさは言い換えれば「手っ取り早い」ということであり、威信的な態度をとるというのは、そういう意味では簡単なのだ。胸糞悪いときがあるけれども。

さて、この弱さを隠してしまいたいという羞恥のようなものがあって、それをきちんと開示できるとき、何かの力みが取れていくような気になる。それが開示するという体験なのかもしれないなと思った。

突如として重力を得る感じというか、友人に相談をした時でもそうだし、自分の弱いところ、言い換えればのっぴきならない側面を打ち明けると、なんだか視点が定まるなと思うのだ。

 

さて、この3つのテーマをもらった時間だった。異質性と霊性。それを身体感覚として捉えながら、自らの住空間をどのように考えるか。また、弱さについて。あるいは強くあろうとしてしまうことについて、とも言えるかも。ストロング・マッチョとは別の道を歩くことの選択。選んだ、というほど意思的でなくとも。

いずれにしても肝要なことがひとつあって、それは霊的なセンサーというか感覚というかをきちんと持つこと。そのために、自分の弱いところ、後ろ向きなところ、ためらいの気持ちをきちんと認識すること、言い換えればふたをしないこと。

そのような態度で、たまたま振り向きながらやっていく。後ろめたい気持ちや、ためらいの気持ちがなぜあるのか、どうしてそれらを身体が感覚するのか。

そんなものは無駄だからと、即決即断をしろ!と言われても、ちょっとできない。そんな風に話すことはできるけれど、それはあくまで方便でしかない時があると思う。わかりやすい状況が求められることがあるから。それとは違う世界が重なった場所に生きている。異界や彼岸としての場所があり、それらを語ることには限度があって、語り得ぬことについて語るときには、黙るのではなく迂回するという手もあるよな、と思う宵の愉快な時間でした。

*1:もともと青木さんはオムライスラヂオなるラヂオ番組をブロードキャストされており、その収録が本の土台にある

組み替え

地元がいいところだとは思うけれど、だからそこに住んじゃいなよって時には、道連れが必要だ。つまりは、そこに暮らすことは良いことばかりではない。苦しいことを引き受け、時には「え、これ辛くね?」「いや、めっちゃ辛いじゃん」って言い合える人がいなくてはいけない。

東京の暮らしが合わなくて地元に戻るのではなくて、こうして栃木に帰ることが決まったのは、偶然だ。それ以上でも、それ以下でもない。

もともと帰りたいと思う気持ちはあったけれど、それは良くも悪くも理想のひとつで、いざ現実味を帯びてくると、本をどこで、そもそもどのようにして買ったら良いのか。というところから考え直しだ。生活のリフレームを余儀なくされる。そんなことは移住本には書いてない。

これまでの暮らし方、たとえばふらっと定食屋を見つけたから寄るとか、多すぎるチェーン店からひとつを選び、今日は富士そばを食らうとか、そういうことができなくなる。街灯すらまばらな暗闇のなか、車を走らせるのか電車に乗るのかして、およそ10年ほど空きがある地元を生きなくてはならないのだ。

正直、ふるさとでなかったら移住とかIターンとか言われるようなことにはならなかったと思う。できちゃう人は本当にすごい。カメラを書い、書く仕事を出身地に持ち帰る。流れに任せていただけなのだ、それなりのことを準備をしたけれど、結局はそういうことだ。あらゆる物事の手綱を握ることはできないし。

そういうことだから、地元に帰るのは現状、良いことでも悪いことでもないし、そこで待ってる苦しみを、その場所だからこそ引き受けたい、今はそれしかない。近くに住むということは、親の面倒を見ることが必要になってくることだし、青年団とか消防団とかに入るということだ。東京で考えなくてよかった事柄が増え、自分のキャリアだとか、自分ごとで占められていた領域が減る。

粛々と引っ越しの準備をする。時間を空けてもどった故郷がどのように自分に映るのは、これから東京はどう映るのか。楽しみだな。という覚書。

 

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暮らす準備

 

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

 

 9月15日。日曜日。東京は晴れのち曇り。

奥野さんの本を読んでいて、次の暮らし方について意見がまとまったから、それについて書いておく。それから、欲しいものをリスト化しておくことにもする。その作業ログとして、今日の日記を書く。

まず、実家に帰ることになったので、実家で暮らす父と母、それから(おそらく)は弟とその連れ合いが、今の家に暮らすことになる。自分は実家にはいるけれど、おそらく実家にもいるし、自分のアパートにもいるしっていう生活をしそうな気がしていて、それはその方が「性に合っている」と思うからだ。

さて、その実家の方にはある程度設備を作り、仕事部屋のような、ある程度どっしりとしたものを構えつつ、アパートには機敏性が高く、実家での暮らし方、あるいは栃木県そのものでの動き方を考えられるような、逃げ場、簡易住居、旅先のような、落ち着かなさや、実家とは異なる空間を作ること。それをひとまずは目指したい。

 

実家のどっしり感と、それに対応する形でのふわっと感。

まずは実家だが、必要なのは本がある空間だ。今手元にある本を、ひとまず1冊も処分することなく、実家に送る。これは今週末からやろう。本を詰めて、実家に送り返す。実家には本棚を儲けるが、これは家にある古い家具を利用することにしたい。納屋にあるものを磨いて、それを本棚にする。古い家具は修理が必要かな。ひとまずこれは親に連絡しておくっと。

小学校の頃から使っていた勉強机は健在だから、それを作業用デスクに。今これを書いているデスクトップを配置する。このパソコンはまだまだ使えるから。書斎と仕事部屋を作ること。

それ以外の生活空間は、親やこれから加わる人たちとのミックスアップでどんどん変化してよい。自分で直しながら使ってもいいし、好きなように変わっていけばいい。それだけで良い。そうすることでむしろどっしり感が生まれるだろうと思うから。そういう複合さがあればいい。

父が言っていたシネマルームは、年内までには整えて、冬に映画を楽しめるようにしておこう。もうDVDは買わなくていいし、それ以上の画質で、今まで楽しめなかった映画をどうぞ心ゆくまでに体験してもらえるように、冬のボーナスで音響を揃えてやろう。

 

さて、次はアパートだ。

これはまだ推測だが、ひとつのところにいると息がつまるし、そろそろ一人暮らしも10年だから、一人でいることに自分の身体はすっかり慣れている。親との暮らしは軋轢も多いだろうし、人も呼びにくい。友人を呼んでバーベキューなんてのは家族を巻き込んでしてもいいだろうけど、そうではない時が必要だ。

で、今の暮らしを見ていて思ったのが、まずベットだ。これを見直さなくてならない。簡易的な構造の脚と、折りたためるかしてコンパクトになるマットレス。まくらと布団のセットがひとつ。これらを極めて効率的にまとめあげ、デミオとかの荷台に収められるもの。まずこれが必要。

さらに、必要なものは本棚。書斎は実家に作るから、そこが図書館のようになるとして、興味のあるものだけが集まった本棚が欲しい(そうすれば見境なく本を買えるからね)。組み立てが楽で、軽い。折りたためば荷物にならない。こんな本棚、棚が必要だ。

必然的に素材はアルミあたりになるだろう。鉄や木材のみだと軽すぎる。上部でかつ持ち運びに便利。これも折りたたんで荷台に詰めるのが良い。冷蔵庫も小さいものがひとるあればいい。両手で持ち上げられるものがひとつあればいい。45Lぐらいの。

洗濯機はいいのを見つけた。これがあればほんとにいらない。たまった洗濯モンは実家に帰ってガシガシと洗えばいい。

 

料理はするから、キッチンにはある程度道具が必要。でも今あるものをそのまま持って帰れば困らない。みかん箱1つに収納できる。それくらいあればいい。お皿も対して必要ない。茶碗とおわんが2つ、大きなお皿が何枚か。買い足す必要がない。

後は作業台としてのテーブルと適当な棚が2つあればいい。つまり必要なものは、

・軽い+組み立てが楽なベッドフレーム

・折りたためるマットレス

・布団セット

・本棚になるシェルフ(収納も兼ねて)

・作業もできるダイニングデスク

あとは細かい道具が揃っていればいい。軽くて組み立てが楽で、丈夫であること。

この2つが揃っておればOKだな。よしよし。

 

準備というか、妄想というかだけど、ある程度予算を立てよう。

さてさて!

 

ジェラート300円。

9月14日。土曜日。東京は曇りときどき晴れ。

頼まれごとが割と遅くまでかかってしまい、アイデアの引き出しの少なさに頭が上がらなかった昨晩の遅さゆえ頭が痛い。目覚めたら昼前だった。昼ごはんは昨日買っておいたものにするか。二階へ。冷蔵庫を開け、あさりを買っておいたことを思い出す。

白米を茶碗に2回、それを水で研ぎ、炊飯器へ。早炊き。その間に座椅子に腰掛けて髭剃りをする。Youtubeのアプリを開く。心理学者のチャンネルを見る。洗面台へ、顔を洗う。

奇妙な夢に食われた。それなりに離れて暮らしているはずの友人が出て来る夢だった。夢の中で仲睦まじくしているその人とは、リアルではしばらく会っていないし、お互いの近況もよくわからない。そういう人に縛られながら、カーテンを開けた。米が炊ける。もう昼ごはんか。

こんもり持った白米に箸をつける。久々の自炊になってしまった。地元で採れた米を食べる。毎食のリアル。唯一産地がありありとわかる場所。

 

大家さんと不動産屋に電話をかける。退去したいのですが。大家さんがすべてやってくれるらしい。不動産屋は話にならなかった。大家さんが良い人でよかった。ヤマトの単身サービスは新しくなるらしく、まだいじれなかった。週明けまでに色々と決めておかなくていはならない。

朝から調子が悪かったけれど、家の仕事をしていたら調子が戻って来た。丸山珈琲の豆を挽いて、2カップ分淹れた。少し粗めに挽くといいよと言われてから、けっこう上手くなったと思う。

散歩に出ることにした。マスタード色の羽織りに、財布と本の入ったトートバッグで、中野の手前を歩く。休みの日だから駅に近くと家族連れが多い。本屋によって、石井ゆかりさんの新作を立ち読みし、見晴らしのよい方へとだけ決めて、また道路に戻る。西日がさしてきた。

途中、老舗の洋菓子店に立ち寄った。ケーキとジェラートジェラートはシングルで250円、ダブルで300円。財布の小銭を確かめて、仄暗い店に入る。

ほのかなハーブの香りと、蛍光灯に焼けたメニューを眺めていたら、奥から腰の曲がったシェフが出て来た。ジェラートはシングルで250円、ダブルで300円と、さっき外で見て来た説明を受ける。紫芋、黒ごま。コーンにたんまり。店を出る。

学生が部活に励んでいた。偉そうな顧問。それぞれに3人ぐらいのグループを作る、バスケ部の面々。奥にいるのは野球部か。ジェラートが溶けそうだ。おいしい。

笛と太鼓の音がする。マンションや家の狭い間を縫うようにして、その出どころを探す。はっぴを来た大人が2人すぎた。それは近い。果たして今日は秋祭りのようだった。交通整理の赤い棒を持った大人が、広いとは言えない道路の端っこで忙しくしている。お神輿は子供サイズ。端の方でみすぼらしいお神輿が、わっしょい声と練り歩く。過ぎ行く車はみんな無関心か。ベンツがあっという間に過ぎた。

眠たくなって来た。足は自然と家の方へ向く。坂の上にある駅から、そろりと下り坂。勾配がきつくなるように、西日も傾いて来た。冷たい風が吹く。

 

9月の中頃に遊ぶ約束をしていた友人に連絡をとる。今日しか空いてないらしい。仕事は落ち着いている。相変わらず自分の人生を歩んでいる、と思わせる芯のある人だ。元気でやってくれ、また来週連絡するよ。

机の上を片付けた。PCの位置を変える。引っ越しを見越して、机を片付けなくてはならない。今回ばかりは少しずつ、ゴミを片付けていかないとならない。そうこうしているうちに、夜も更けた。

 

東京は好きになれなかった。暮らしの密度が濃すぎたし、小綺麗な公園には人が殺到していた。自然は管理されて人工的だったし、人工的なものが自然に食われることはないのだろうと思った。森を歩いていたら、倒壊した家屋に出くわすなんてことはないし、井之頭公園なんかでは。

ただまあ、そう入ってもここ3ヶ月ぐらいは空を見ることが多くなって、それはまあ人工的なもんではない風景だからというのと、割と上を見るっていうのが大事だった。それから風を肌で受けるというのも。木々が生い茂ってないのを言い訳にしない。それから幾分か楽になった。

けれどもここでは共通言語が金と功名心な場所があって、それはたぶんに自分を毒している。それから離れることで東京を恋しくなろうとも、それはそれで良いのだ。ずっと恋していればいい。ここには骨を埋められないのだから。

戻った後に何をしようか考えている。まずは父を縛っていた納屋の倒壊を記述すること、それから新しく建築される納屋を語ることだろうな。前代の構造物と、これからの構造物の間を目撃すること。やりたいことはたくさんある。また明日も片付けだ。

 

ブンジン。

あまりに暑い日々が続いているけれど、およそ均一的に冷涼な部屋にいたんではなんだか具合が悪くなってくる。ということで、2階は窓を全開に(洗濯物がよく乾く)1階はそれなりの温度をエアコンが保つ、という生活空間が出来した。夏、8月はじめての週末。

あまりに暑いうえに、原稿を溜め込んでいるから気分はどんより梅雨のままであるけれど、遠くに聞こえるきよしのズンドコ節や、近所に多数出没を確認できる浴衣姿のご両人を見るにつけ、夏っけが増していくのがわかる。それ相応に汗をかいて暮らす。

仕事を選ぶだとか、どうやって暮らすかだとかいう話題になると、決まって「自分のしたいことはなにか」という問いかけが入道雲のように広がってくる。やがてそれは大きな雨を降らして土壌を洗い流してしまうから、せっかく考えても意味がない、うだうだすること夏、という時間に成り果ててしまうことが多かった。

その入道雲のような問いというか、もはやそれは依存的な態度というかだけど、それを唾棄する(強い言葉が浮んでくるものだ)までいかずとも、まあ飼い慣らせるようにと思って、本棚から『私とは何か』という新書を手に取った。あざかやなイエローが瑞瑞しい、平野啓一郎さんの著作。 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

いつだか大学時代にこれを読み、自分は「ブンジン」の集合である!と納得はしたものの、そこから自分の捉え方を根本から書き換える、という壮大な物事には到達せずここまで来た。というのも、それは多分に個人的な努力では収まりが効かないものであり(まず分人というものも、相手ありきで出来上がっていくものだら)つまり、環境から受ける影響が大きいということだ。

その環境は、例えば本屋にいくと「自分の好きなことを仕事にせい」「本当の私に出会える」という言葉にあふれていて、要するにそういう言葉をカービィのごとく吸収してしまうのだ。

挙句、その手の本が“本当の自分になる”ための、変身のための方法論が書かれたものとして十把一絡げ的に認識されるに至っている。

自己表現だとか、要するにこの「自己」という言葉から疑ってかかるべきところを、その疑う主体がまず「自己である」というもう本当にこれはやっちまいましたね、な考えに取り憑かれてますねという次第なのだ。

さて、このブンジンというのは、コミュニケーションに都度出来する「顔」に合わせて出てくる人たちで、社会やグループに依拠する形で、ある種のパターンを形成する。その分人の集合体が、いわゆる私を形成する。こうなってくるともはやイメージは「土地」だ。顔という土地に複数の人が住んでいて、彼らがゲストたる他人に対して、その都度対応してくれる。その様子を、違う分人が遠くから眺めたり、その他人が帰路に着いた後で、反省会的な省察を始める...などなど。

そうなるともはや人付き合いは土着的である、と言い切ってしまいたくなる。ある種の具体性を帯びるほかない、限定的であるほかない付き合いを受け入れる。有限性。そういうワードのもとで、分人たちに井戸端会議をかける。

分人たちはいろいろいる。小学校の頃に形成されたもの、中学のそれ、高校のそれ、大学・職場のそれ、等々。赤裸々で、透明で、何も濁っていないピュアな関係というのは「あったらいいね」的なもので、振り返ってみれば、どいつもこいつも具体的だった。

抽象性が高く、どこまでも飛んでいけそうな物語が大好きなのも、たぶんこの具体性の上に自分が立っているからだろうなと思う。憧れは上に向かうし、広がる。それは確かな足元の感覚や、重力によってある土地に立っているという感覚に基づかないのであれば、知覚することが難しいーつなんじゃないか。

 

いやはや、こんな具体性のない話で「具体的なもの」について書くなよって話なのかもしれないけれども、いやでも、私は今原稿という無慈悲にやってくる仕事の合間にこうして、毒にも薬にもならない言葉を書いているのだからして、この行為自体、えらく具体的なものなのだ。許してくれ。

というわけで、ガシガシと分人について考えながら読むのだ。ひとつの顔ばかりではないと腹の底からわかると、きっと生きやすくなるはずだぜ。DIVIDUALなものを掴むために、以前の読書ではなぜか向かわなかった『ドーン』へ、確からしい引力を感じながら。